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【浪曲解説】決戦巌流島

浪曲解説

 

決戦巌流島

口演・天中軒雲月  三味線・伊丹秀敏 /作・中川明徳

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戦後の四天王の一人、新作の雲月で売った四代目天中軒雲月の代表作の一つが「決戦巌流島」。もともと講談などでおなじみの剣豪、宮本武蔵だが、吉川英治の時代小説で注目され、4部作で映画化(監督・内田吐夢、62年~65年)もされた。武蔵は萬屋錦之介(当時は中村錦之介)、小次郎(巌流)は高倉健。

浪曲は巌流島に向かう舟を漕ぐ場面が見せ場。

四代目の名演を五代目が受け継ぐ。

 

 

 

【あらすじ】

 剣豪、宮本武蔵は、宿敵、佐々木巌流と対決することとなり、灘島へと小船で向かう。果たして武蔵の二天一流は巌流の燕返しを破ることができるのか。

 

 

【講談の宮本武蔵】

講談では、武蔵は播磨の郷士、吉岡太郎左衛門の次男として生まれた。太郎左衛門は武芸者で、足利義輝から「天下無二の腕」と褒められたため、吉岡無二斎を名乗った。武蔵は15歳で二刀流に開眼し、無二斎を凌ぐ腕となる。加藤清正の家臣、宮本武左衛門の養子となり、宮本武蔵を名乗る。

無二斎は佐々木巌流の闇討ちに遭い命を落とす。武蔵の兄は病のため仇討ちが出来ないことを悔やみ自害、武蔵に父の仇討ちを託す。

武蔵は巌流を探し旅に出て、姫路で妖怪退治をし、大和で山賊退治をし、日向で武満流風軒より、信州で塚原卜伝より剣の奥義を学ぶ。大坂では豊臣秀吉とも会う。秀吉の威光で、巌流が豊前にいることを突き止めた武蔵は、周防の灘島で決闘をすることとなる。のちに死んだ佐々木巌流の名より灘島は巌流島となった。

武蔵は肥後へ行き宮本家を継ぎ、吉岡家は弟子の喜兵衛が継いだが、喜兵衛は悪人、大沢団右衛門に殺される。武蔵の子、八五郎が喜兵衛の仇を討つ後日談もある。

 

 

【史実の宮本武蔵】

宮本武蔵は1584~1645。黒田官兵衛に仕えていた説が有力らしい。13歳~29歳で60回試合をし、一度も負けたことはなかった。21歳で足利家兵法指南の武芸者(吉川英治の小説では吉岡一門)、慶長年間に灘島で佐々木巌流と戦った。大坂の陣で徳川方、水野勝成の客将として参戦。その後は姫路に住む。その後は尾張や江戸にいた記録があり、晩年は細川家に招かれて熊本に住んだ。兵法書「五輪書」を著す。

 

 

【宮本武蔵のエピソード】

◉武蔵が塚原卜伝を訪ね、卜伝が武蔵の剣を鍋の蓋でかわしたエピソードがあるが、卜伝は1571年に亡くなっているので、武蔵とは立ち会えない。ただし、卜伝が死んだと見せて、信州の山奥に隠棲していたという説もある。

◉画や書の達人で作品が多く残っている。

◉闇討ちを恐れ、風呂も厠も入らなかった。ウンコをする時は、四方が見渡せる原っぱの真ん中でした。

◉武蔵を描いた時代小説は吉川英治だけでなく、いろいろある。山本周五郎の短編「よじょう」は武蔵の晩年を山本周五郎視線で描いた名作である。

 

 

【中川明徳】

中川明徳(1910~85)は四代目雲月の新作浪曲を多く手掛けた浪曲作家。佐賀県に生まれ熊本五高時代にマルクス、レーニン主義に傾倒し、警察のお世話にもなっている。上京し早稲田で学び、活動を繰り返しまた逮捕、九州へ戻され福岡毎朝新聞の記者となる。ここで浪曲研究家の本多哲(「杉野兵曹長の妻」の作者でもある)と出会い、影響を受けて浪曲に傾倒。マルクスから浪曲に一気に転向、浪曲台本を手掛ける。戦後は「蟹工船」「民衆の旗、小林多喜二」「はりつけ茂左衛門」「民衆の詩人、石川啄木」など左翼浪曲も手掛けた。

知識人が浪曲を嫌うことに嘆き、大衆に支持される質の高い台本が必要だと説く。

虎造や二代目雲月にも台本を書き、四代目雲月には「決戦巌流島」のほか、「暁の脱走」(原作・田村泰次郎)はじめ多くの作品を書いている。浪曲作家として第一線で活躍しながら台本集を出版し浪曲界に一石を投じたりもした。